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母、タケノ

母は今年の8月1日に88歳になる。

母は太平洋戦争のころ中国満州で紡績関係の仕事をして、終戦後引き揚げてきた。仕事では主任クラスの仕事をしていたようで、治安の悪い中で苦労もたくさんあった、と話していた。


戦争に召集され戦後ボルネオから引き上げてきた父と結婚し、私たち子供3人を育てて来た。事情により父方の甥2人を預かり一緒に生活していた時期もあった。

子育ての頃は、子供3人、甥2人、義母、義妹の9人の生活で、けっして贅沢や無駄が出来る状態ではなかったが、子供心には大変な貧乏とも感じなかったのは両親たちが一生懸命働いていたからであろう。

母は皆の朝食、父親達の弁当、共同水道での洗濯など休むこと無く体を動かしていた。小生などもは弟を背負っての子守、木工職場へ自転車通勤をしている父の自転車で弟を荷台に乗せての保育園送り、七輪での火熾し・・皆が何かの分担仕事をしていた。


保育園のころは月末支払いの園費(250円か500円だったと思う)が、父の給料が5日なのでいつも毎月の支払袋を月末近くに園から受け取るも持っていけなくて、母は小生に「後日払います」と言わせ知らん顔していた。

小生は長男で服はいつも貰いものであった。小学ズボンも上と下を繋いだものだった。
小学校五年の時に新しい学生服を買ってもらったが、なかなか着せてもらえなくて、やっと6年生になる正月に新しい服を着せてもらえたことが小学生の時の一番の嬉しい事だったように思う。



小生が小学3・4年生のころだと記憶するが、弟の保育園入園の目処が立ち、母は父が勤める近所の木工所へ家計の手助けで勤めに出た。その後、手取りが少しでもいいと新しい仕事を探してきた。
・別の会社の木工所の手伝い
・市内のバスターミナル2階食堂の営業が済んでからの掃除
・電信電話公社の掃除(現在の宅地拡張購入時に公社職員のご協力で電柱移動してもらったり)
・屋台収納基地からレンタル屋台を2km引いてラーメン屋営業(一時手伝いに来るか、と母が聞くから約2kmの基地まで行き、営業場所まで屋台を押していったがラーメンを食べさせてくれなかったのは記憶に残っている)など、
収入アップのためにいろいろな努力をしてきてきた。
対人間関係もこの時期に多くの人との対話が出来るように幅が広がったのではないか。


このころもまだまだ貧乏で、土曜日昼から下校して一人で昼食を食べるが、おかずはいつも無く引出しに10円あれば「八百屋、辻」に行き、赤豆10個10円で買ってきてご飯にまぶして食べていた。
引き出しにお金が無い時は、ご飯をおひつから碗に盛り砂糖を振り掛けて食べていた。そのじゃりじゃり感は今も歯の感触に残っている。・・・たぶん妹・弟はこの経験はないのではないか。



こんな中、昼に有った引出しの中の少しまとまったお金が夕刻には無くなっているのに何となく違和感があったにも係わらず、そのお金は大人の範囲のものであり遊びにも忙しい小学生心には異次元の出来事であった。
しかし母親にとっては今日明日の生活に密着したお金であり、小生に問いただすも分かるものではない。
いつも定刻に帰宅する父がたまたまその日は遅くなり、その夜は母と父がなにやら話をしていた。
義母や近所の井戸端会議で「・・遊ぶのはいいが支払いのお金を使って・・許せない・・」とか何やら話をしていたが、数日後母の姿が見えなくなり、少し慌てた父は関係筋にアンテナを張り実家の香川県に帰っているとの情報を得るも、なかなか連れ戻す手段と決断を持ってなく、車を持っていた親戚の方に二度行ってもらった。
母の帰宅は約2・3週間後だったのではないか。
大きくなってから判明したが、父は男としての欲求をお金で買っていたと分かり、苦しい生活の中で好きな晩酌、毎日曜のパチンコだけでは人生感に穴が空いてる部分が埋められない感情があり、感情を始めて表面に出しことに、男の親近感を感じた。



中学生になって、6畳、3畳の二間しかない部屋の3畳の部屋をもらい、夜に少しの宿題も出来るようになると若干成績が上がった。
母としては自慢になり近所の井戸端会議でもらしたかもしれないが、西隣のおばちゃんの孫の小学生家庭教師の依頼があり、1mの窓を乗り越えて3畳の部屋に週一回日曜日に来るようになった。
その後、小生はその子の少ししか上がらない成績や反応が返ってこない姿勢が、嫌になり「止めたい」と母に言うと「その3000円が今は家庭になくてはならないから続けて欲しい」と。
その時の母の顔は生活疲れを子供に見せられない顔と辛抱して欲しい顔がダブって見えた。
が、一年くらい経過後年度区切りで止めたと記憶する。


このころは弁当箱もおばさんの払い下げの剥げた花柄アルミ製で、おかずはコロッケ2個だった。
今では友人に笑い話として話せるが、友達がおかずを覗き込むのを蓋で隠しながら食べていた。コロッケ2個は家族の中では決して粗末なおかずではなかったが、毎日は止めて欲しいと思うもなかなか言えなかった。
母は子供心を知っていたと思うが、その顔はいつも知らん顔であった。
ただ、工業高校に入ってからの弁当のおかずは誰にも負けないもので、もう少し少なくして欲しいと言うも3年の卒業まで少なくならかった。
高校の成績を一度も確認することがなく小生を信頼していた母は、今までの貧相なおかずの反動や、いい就職に向けての頑張れ感があったのではないか。


高校卒業時にスーツを新調してもらった。支払いは母。薄緑色をベースにした薄いチェックが入っていたと思う。仕立て屋に狭い家に来てもらい検寸し、1ヶ月近く経って初めてスーツを着た。隣の友人とこれを着て繁華街に数度飲みに出た。
初任給は28500円で、初めのうちはほとんどを母に渡していたと思うが・・定かでない。この時期の母の顔は苦しい生活観を滲ませていた顔は少なくなり、苦しいなりにも生活感向上や自分の仕事や義母との関係でゆとりの時間を持てるようになったと思う。


高校卒業後10年、薄暗い家から家族全員の6人新住宅に移った。
「今、前の家に行ってみるとよくあの薄暗いところで生活をしてきたものだ・・」と言い、新しい生活を実感していたようだ。。
この時期は子供3人も就職し、父も木工職定年で土いじり、母も数年で退職し年金暮らしに入り、自分の生活を楽しむようになり毛糸の編み物を、家族や関係者にたくさん編んでいた。
交友関係にも新しい名前を聞くようになり、いっそう活動枠が広がったように思われる。


年金生活に入り活動枠が広かると同時に、怪我、病気との遭遇も多く入退院が多くなった。
家族の注意にも聞かず雪に日に自転車で出かけ、転んで膝を打ち救急車で運ばれ入院、その後の膝の痛みに悩まされた。
外出先で転び、股関節骨折で金属挿入。退院後数ヶ月でまた転倒で股関節骨折で金属挿入で両足に金属挿入・・これでバランス取れたのか足の骨折はなくなった。
また高血圧で寝込んだり、古傷の膝に水だ溜まるとかでたびたび入院。
さらには内科通院中に口元の締まりがおかしいと感じ、自らタクシーで掛かりつけ総合病院へ行き緊急の脳内出血手術を2回も受けたり、眼科、頻尿、高血圧、骨折その他で治療系だけで年間40万円を超える医療費支出、さらに介護系でも年間数十万円の出費をしていた。

いつも介護系関係者や知人友人に部屋に入っていただき会話を楽しんでいた様子がいつも目にしていて、この関係者とのコミュニケーションが人の幅を広げていた模様だった。


新宅は幸いにも義母、父母、子供3人の各部屋があり、さらには妻+子供が増え賑やかな家庭になった。
ただ、家族の多さと賑やかさは一面微妙な人間関係を伴うものらしく相互が窮屈なものを含んだ場面もあったと思われる。
ただ母にとって義母他界、子の独立、小生の単身赴任や孫の自立、さらには2年前の父の他界などで空き間が出て、年齢から来る不安も加算され戸締りが極度になったり、長女の妹に頼る部分が多くなったように思われる。

もの静かで何事も母に頼っていた父。誠実さ人の良さなどだけでは埋められない生活面の隙間は、丈夫で元気で何事もチャレンジ精神をもつ母が居たからこそ苦しい生活を克服して子供達や孫達が育ってこれたと思う。
亡き父も感謝しているだろう。


二間で多人数暮らしをしていたろ、雑魚寝状態の就寝前に「寝るときが一番幸せ。極楽極楽」と毎日言っていた。
リハビリ施設で早朝急変して横になっているこの寝顔は、あの時の寝顔と一緒で微笑みを浮かべている。極楽を感じて眠っているのであろう。


精一杯育ててくれたくれた事を子供・孫達は感謝している。
ありがとう。

2014.3.31-4.2


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