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はとバスツアーと相田みつお美術館と大江戸骨董市

はとバス「粋な浅草江戸っ子物語」 \8,500
10:40 Hato 東京駅丸の内南口 はとバス出発 
1 Hatonoriba
皇居ドライブ (東京駅南口から皇居堀を回るコース)
二重橋
11 写真は「正門石橋」。
「二重橋」はで作られた奥の「正門鉄橋」を言う。

本コースからは皇居内の「正門石橋」、「正門鉄橋」は見えない。

皇居回りはジョギング人が多数。5km、10kmコースがあるようだ。


 
桜田門
2 『桜田門は寛永13年(1636年)に徳川家康が入府の際に修築され・・・

2つの門からなり、第一の門(高麗門)、を通ると空地があり、右折すると第ニの門(渡櫓門)・・・

江戸見附様式で枡形形式の城門・・・桔梗門の内桜田門に対し、桜田門は外桜田門と言われ・・・』
 
国会議事堂
12 『昭和11年(1936年)11月に建設された。

当時は日本一の高さ

みかげ石

同年12月24日に召集された第70回帝国議会から使用・・・』
 
半蔵門
4 名称の由来は、
この門の警固を担当した徳川家の家来、服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するとする説と、山王祭の山車の作り物として作られた象があまりにも大きかったために半分しか入らなかったことに由来するとする説がある。
定説は前者。
 
千鳥ケ淵 (画像は桜の季節)
13 江戸城拡張の際、局沢川を半蔵門と安門の土橋で塞き止めて造られたお堀。

半蔵濠とかつて繋がっていたが、1900年に道路建設のため埋め立てられ別々のお堀となった。

千鳥ヶ淵付近は桜の名所。
ライトアップ、堀でボートで賑わう。
 
靖国神社
5 靖国神社ホームページより
『明治2年(1869)6月29日、明治天皇によって建てられた東京招魂社が始まり、明治12年(1879)に「靖国神社」と改称・・・

靖国神社には現在、幕末の嘉永6年(1853)以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの・・・246万6千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされて・・・』
 
浅草散策
15
 
昼食 「浅草 麦とろ
6 駒形橋西詰に本店

東北にスカイツリー、アサヒビールが展望。


14 関西系の舌には少し塩辛い感あり。
「おから」がgoodでした。

「とろろ」は二人ですり鉢いっぱい。麦飯はおひついっぱい。食べ切れません。

ビール、酒をもう少し安くして欲しい。

仲居さんは外国人には英語で対応していた。

「とろろ入りかりんとう」含め菓子試食・割引券あり。
浅草演芸ホール
16 『昭和39(1964)年、「浅草フランス座」を増築して作られた4階と5階に、「浅草演芸ホール」が生まれ・・・、
名人と言われた桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭円生が現役で高座に出て、古今亭志ん朝、立川談志、三遊亭円楽がまだ若手だった当時、浅草演芸ホールにお客様が入り・・・、「爆笑王」林家三平が高座に出・・・、
昭和60(1985)年には、テレビ東京が「生放送お笑い名人会」を月曜日の夜に生中継放送・・・司会はみのもんた・・・。』
17 入り口正面

毎月落語協会と落語芸術協会が10日替りで交互に公演。

通常\2500/大人。

本コースは入場券込み。
(浅草散策含め約60分自由行動)
18 出演者

約15分/一人の演目。

『落語のほか、漫才、漫談、コント、マジック、紙切り、曲芸、ものまねなど、バラエティーに富んだ番組をご用意・・・、
昼の部と夜の部は、原則として入替え無しで好きな時間に来て心ゆくまで「演芸」をお楽しみいただけます・・・。
萩本欽一やビートたけしなどを生み出した、お笑いの殿堂・・・』
 
浅草観音(浅草寺)仲見世
19 『浅草寺縁起(由来)

推古天皇36年(628)3月18日、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が江戸浦(隅田川)に漁撈(ぎょろう)中、観音像を感得(かんとく)し・・。

郷司(ごうじ)これを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り帰依し、出家し、自宅を改めて寺とし、礼拝(らいはい)供養に生涯を捧げ・・。

大化元年(645)、勝海上人(しょうかいしょうにん)がこの地に来、観音堂を建立、本尊を秘仏と定め今日まで掟は厳守されて・・

東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増え発展し、平安初期には、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が来山・・

鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受け、武将らの信仰をも集め・・・江戸時代の初め、徳川家康によって幕府の祈願所と定められてから江戸文化の中心として、大きく繁栄した・・
都内最古の寺院で「浅草観音」の名称で、年間約3000万人もの参詣者がおとずれる。』


写真は
浅草寺宝蔵門
境内の東北震災支援イベント

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21 浅草仲見世商店街
『日本で最も古い商店街の一つで・・・
江戸の人口が増え浅草寺への参拝客も賑わうにつれ、浅草寺境内の掃除の賦役を課せられた近くの人々に対し、境内や参道上に出店営業の特権が与えられたのが仲見世の始まり・・元禄、享保(1688? 1735)の頃。

仁王門寄りの水茶屋の役店(やくだな)が並び、雷門寄りは平店(ひらみせ)と呼び、玩具、菓子、みやげ品などを売っていた。

現在は東側に54店、西側に35店、合計89店の店舗。長さは約250メートル。外国人多い。

浮世絵店あり。原版版画は800,000~50,000。
7 駒形橋西詰から

右から
スカイツリー
UR都市機構
アサヒビール吾妻橋ホール(オブジェ)
アサヒビール本社(階上は泡をイメー)
墨田区役所
吾妻橋(朱色)
隅田川下り  (浅草 - 浜離宮 - 日の出桟橋)
24 江戸時代の300年間に隅田川に架けられた橋は、『千住大橋』、『両国橋』、『新大橋』、『永代橋』、『吾妻橋』 の五橋。

幕府が架橋を制限していた理由は、架設費用、川が濠としての役目、洪水による 上流側から木橋流失の危険性・・・。

23
 
吾妻橋
25
架橋以前は、「竹町の渡し」があった。
創架は安永 3年(1774)。

江戸期に架橋された最後の橋。
明治 7年(1874) の 『厩橋』 架橋までの100年間、「隅田川」 には新たな橋は架けられなかった。

架設当初は 『大川橋』の名が、左岸(向島方面) にある 「吾嬬(あづま)神社」 への道筋にあたることから、『吾嬬橋』 とも呼ばれ、 『吾妻橋』 に転じ・・・明治 9年(1876) の架け替え時に、 『吾妻橋』 に。

現在の橋 は昭和 6年(1931) に架設。
駒形橋
26 架橋以前は 「駒形の渡し」 があった
創架は昭和 2年(1927)。

『駒形橋』 の名は、右岸(駒形側) 橋詰にある 「駒形堂」 (馬頭観音が本尊)に由来。

現在の橋は昭和 2年(1927) に架設。

 
(うまや)
27 架橋以前は「御厩(おんまい)の渡しがあった。人も馬も二文の船賃。

地元住民が費用を出し合って架設。
創架は明治 7年(1874)。

『厩橋』 の名称は 「御厩の渡し」 から。「厩」 とは 「馬屋」 のこと。この一帯の 「御米蔵」の、米運搬のため専用の「厩」があり、馬が多く飼われ「御厩(おんまい)」 の名称が使われるようになつた。

明治20年(1887) には東京府の管理になり、明治26年(1893) にトラス鉄橋に架け替え・・・。

現在の橋は、昭和 4年(1929) に架設。親柱には馬をデザインしたガラス細工・橋の各所に 「厩」 にまつわるオブジェが・・・。
蔵前橋
28 架橋以前は「富士見の渡し」 があった。
創架は昭和 2年(1927)、関東大震災の復興計画による。

右岸側の地名 「蔵前」 から名付けられた。
徳川二代将軍秀忠の時代にこの一帯 を埋立て3万坪の米蔵94棟「浅草御米蔵」を建て、天領(幕府の直轄地) から入る年貢米を収蔵していた。

鋼製 「ヒンジアーチ橋」と呼ばれる構造で、橋体の黄色は、米蔵にちなんで黄金の稲穂色をイメージ。

橋の東詰(左岸側) は 「墨田区横網」。地名は 「横綱(よこずな)」 ではなく 「横網(よこあみ)」。

 
両国橋
29 創架は、寛文元年(1661)。

江戸最大の大火 「明暦の大火(振袖火事)」(1657)の時逃げ場を失った江戸市民は 「隅田川」 まで逃れてきたが、
川を渡れずに多くの焼死者を出した。
これを教訓に避難路としての 「橋」 が架設。

「隅田川」 の右岸は江戸(武蔵国) 、左岸は下総国(しもうさのくに)であったため、両国を結ぶ橋として名付けられた。

現在の 橋は、震災復興橋梁として昭和 7年(1932) に架設された。
 
Hiroshige_ryogouhanabi Hopkusai_ryogoubashiyuhimi 歌川広重
「両国花火」










葛飾北斎
「御厩川岸より両国橋夕陽見」
新大橋
30 創架は元禄 6年(1693)。

当時 『大橋』 と呼ばれていた 現『両国橋』 の下流に架設されたことから名付けられた。

寛永年間(1624~1643) には幕府船 「安宅丸(あたけまる)」 が繋留されていて
一帯を 「御船蔵安宅町」 と呼んでいた。
安藤広重 の「大はしあたけの夕立」の「あたけ」は、この地名。

明治になってからも木橋であったが、
明治45年(1912)日本初の鋼製トラス橋が架けられた。この関東大震災にも崩れなかった。
隅田川のほとんどの橋は床材が木製であったため、火災が橋に引火し、多くの犠牲者を出したがこの橋は全てが不燃材で炎上を免れた。

現在の橋は、昭和51年(1976)に架け替えらた。




歌川広重
大橋あたけの夕立

Atake

清洲橋
31 創架は昭和 3年(1928) 3月。関東大震災復興事業による新設橋。

当時の両岸の町名 「深川清澄町」 と 「日本橋中洲町」 から名付けられた。

隅田川大橋
32 創架は昭和54年(1979)。

上下に 2段構造。上段 「首都高速道路」、下段が一般道路で 『隅田川大橋』。

現在の橋は昭和54年完成。

 
永代橋
33 創架は元禄11年(1698)。五代将軍 綱吉 の50歳を祝して幕府が架橋したとされる。

架設位置は現在の 『永代橋』 より100m余り上流で、それまで 「深川の渡し」 のあった。

橋名は、東詰(永代側) を 「永代島」 と呼んでいたことによる。

明治30年(1897)に「鉄橋」として架設さ
れ、現在のは震災復興事業により大正15年(1926)に架設された。

「赤穂浪士の討ち入り」では、両国にあった吉良邸での討ち入りの後、四十七士はこの橋を渡って、亡君浅野匠頭 の眠る芝高輪の「泉岳寺」に向い、橋の深川側の「乳熊屋」で甘酒の振る舞いを受けた・・・。
333 歌川広重
「東都名所-永代橋全図」
Kuniyoshimitsumata
歌川国芳
「東都三ツ股の図」


三ツ股は、隅田川の下流域。
「東京スカイツリー」のような塔は櫓(やぐら)と言われているが、場所もほぼ一致。
遠景の右手に見えているのが永代橋
 
中央大橋
34 創架は平成 5年(1993) 8月。

名は中央区のシンボルとして架橋したことから付けられた。

江戸時代には、隅田川河口付近には佃島と石川島の二島があった。
石川島は「鎧島(よろい じま)」 と呼ばれる無人島であったが、鎧島に石川八左衛門 が屋敷を建てたことから、石川島と呼ばれるようになった。
江戸時代の石川島には現在の「刑務所」の「人足寄場」 があった。

嘉永6年(1853)、黒船の来襲に驚き幕府の命により、水戸藩が石川島に造船所「石川島造船所」後の「石川島播磨重工(IHI)」を建設した。

現在 「石川島」 の地名は 「佃」 に統合され残っていない。
佃大橋
36 創架は昭和39年(1964)。

少し上流にあった「佃の渡し」から名付けられた。

”大橋”と命名したのは、左岸の 「佃川」 に 『佃橋』 や 『佃小橋』 があるためだろうか。

「佃の渡し」は江戸時代の初期、佃島と対岸の江戸市中とを結ぶため佃島の漁民が設け、正保 2年(1645)頃から300年以上の長い歴史を持っていた。
明治の頃には5厘/人で「五厘の渡し」と呼ばれた。

現在の「中央区 佃」は江戸の頃は「佃島」という名称。
「佃島」は「隅田川」 の河口にできた自然の中洲であった。
「月島」、「勝どき」、「豊海」明治以降に埋立てられたもの。

江戸時代初期、徳川家康が幕府を開いた時、摂津国(現・大阪市西淀川区佃)の漁師を呼び寄せ、この地で特権的に幕府御用の漁ができるようにしたのが始まりであり、出身地の 「佃村」 から、「佃島」 と呼ばれるようになった。

この 「佃島」 で生まれたのが 「佃煮」 。時化(しけ)が続くと漁ができないだけでなく、その日の食事にも事欠いたため、湊で獲れた小魚類を塩で煮込んで保存食を作ることを考え出したのが始まり。その後、醤油が伝わると塩煮から醤油煮に変わり、保存食であったものが、江戸市中で売り出されるようになり「佃煮」と名付けられた。



歌川広重
「佃しま住吉の祭」


佃島にある住吉神社のお祭りの風景を描いた作品です。画面中央にある氏子旗にあるように、この祭りは6月に行われました。初夏の爽やかな空気が感じられます。


葛飾北斎
「武陽佃嶌」


現在の中央区佃島を描いた美しい藍摺(あいずり)の作品です。
Hiroshige_tsukuda
Hopkusai_tsukudazima
 
勝鬨(かちどき)
37 創架は昭和15年(1940) 。

名の由来の一つはこの場所にあった 「勝鬨の渡し」 によるものと、もう一つは完成当時の日支戦争の勝利を祈念しての 『勝鬨橋』 と名付けたとするもの。

周辺は大型船舶の往来があっため、その航行に影響のない橋を跳ね上げる形式の「双葉跳開橋」が作られた。
しかし、昭和39年(1964) から全く開閉が行われなくなり、昭和44年(1969) に開閉の中止決定がされた。
 
浜離宮
38 寛永年間(1624~1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原だった。

ここに屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で松平綱重。
承応3年(1654年)綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得た。その後、綱重の子供の綱豊(家宣)が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、浜御殿と改められた。

歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。
 
日の出桟橋
39 日の出桟橋は隅田川ライン、東京湾各ラインの発着場

東京都観光汽船
東京タワー大展望台
402 東京タワーの秘密


17:30 東京駅丸の内南口 はとバス帰着
相田みつお美術館 \800
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大江戸骨董市
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