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知命・立命・運命とは

1. 「命(めい)」とは
1) 「命」は普通「いのち」と言っているが、「いのち」は「命(めい)」の一部にすぎない。

2) 宇宙・大自然・天の無限の創造・変化・化育は、人間のどうにもならない「絶対の働き」であり、人間の恣意(しい)、その時々の思いつき、ほしいままな気持ち、無自覚な本能や衝動ではなくて、絶対的、必然的なものである。東洋哲学で「命」という。
数学的には「必然にして十分」という意味を持つ。
大いなる宇宙・天の作用は「天命」である。

3) 「命令」とは違反することを許されない権威を持った指図ということになる。

我々の「生命」というものは、なぜ生の字に命という字を付けるか。それは我々の生きるということは、これは好むと好まざると、欲すると欲せざるとにかかわらない必然で絶対なものである。「おれはどうして生まれたのか」というのはナンセンスで、個人の妄想にすぎない。絶対性、必然性、至上性、それを表すに命というものをもって生命という。

4) 我々の肉体は「天命」の一部であり、生命である。われわれの人生そのものが一つの「命」である。我々には心・意識・精神があるから、生命に立心偏を付け「性命」という言葉になる。

5) 行き当たりばったりの本能的・衝動的な生活をしないで、巌たる道徳の法則を自覚し体得し生活するような人は「命の人」である。日本の古代思想で命(みこと)という。人格的存在者という意味で「命」の字を当てはめた。そういう人は尊いから、日本武尊(やまとたけるのみこと)というように「尊」の字を当てて、「みこと」と読む。

6) 「命名」という以上は、そこに絶対的な意味を持ち、この子にはこの名が一番いい、この名以外にない、この名の通りになって欲しい、という確信をもってつける名前で、この子の生涯に哲学を与えるものでありたい。

2. 「立命」とは
1) 自然科学はこの天という「命」である必然的絶対なるものを、物の立場から研究・究尽していったものである。そしていろいろな科学的法則・定理というものを把握した。これは「命を立つ」である。

2) 哲学は哲学、宗教は宗教でそれぞれの立場から天命を追求して、これが天命であるというものを明らかにし、立てていく、これが「立命」である。
人間は探求すれば、だんだん必然的・絶対的なものに到達できる。「人命」を究明でき、「命を知り」、「命を立てる」ことが出来る。

3. 「命数」とは
1) 宇宙・大自然・天の無限の創造・変化、人の生命、である「命」の中にある複雑きわまりない因果の関係を、中国学問で「命数・数(すう)」という。これはすべての実在の中に存在する複雑微妙極まりない因果の関係をいう。
数(かず)は、数(すう)の一つにすぎない。

2) 普通の常識的な因果的考え方では判断できないような関係に翻弄され、悪い意味・悲劇的な場合におてい使われるのが「数奇」。
立派な貴族の家に生まれ幸福な結婚をして好生涯を送るかと思われた娘が、お抱え運転手と恋仲になり駈落ちして、淪落ししまいには自殺する・・・こういうことを「数奇な運命」と表現する。

4. 「運命」・「宿命」とは
1) 我々の存在、人生は宇宙・大自然・天の無限の創造・変化による「命」である。その「命」は宇宙の本質の限りなき創造変化で、動いてやまないものであり、「運命」である。

2) 「運」というのは「動く」という字であるであり、ダイナミックを意味する。「命」を知って、我々の存在、人生を理解しそれを自ら運んでいくものが「運命」。

3) 「運命」を学問的に理解しないで通俗的(占い的)に誤解し、決まりきった人生の予定コースと理解したり、何年には病気やら幸福に出会ったり転任になったりと、このようなものは運命でなく「宿命」である。

4) 「宿」はヤドであり、泊まるで、固定的で機械的な意味を持つ。「宿命」とは大自然・天の命を理解せず、我々の存在、人生を理解せず運んでいくことをしないで、固定的に生きていくこと。

5. 「知名」・「立命」とは
1) 「命」を理解し、複雑な数(すう)を知ることは「知命」。

2) 命というものは天の絶対的なもの働きであるけれど、その中に複雑きわまりない因果関係がある。その因果の法則を探りその因果の関係を動かして新しい運命を創造変化させていくことが「道」であり、「立命」である。

3) 孟子』 「尽心(じんしん)
その心を尽(つ)くす者はその性を知る。その性を知れば則(すなわ)ち天を知る。
その心を存し、その性を養うは、天に事(つか)うる所以なり。
妖寿(ようじゅ)(たが)わず、身を修めて以って之を俟(ま)つは、命(めい)を立つ所以なり。

性・・・心の本体、本質的なもの   天・・・大自然、宇宙    妖寿・・・妖は短命、寿は長寿   貮わず・・・違わない
我々の心というものを通じて、その心の実体、本質というものを究明すれば、自然、宇宙その最も主体的なるもの、天が分かる。宇宙の本体、大自然の真理、宇宙万物を支配する大いなる理法を知ることができる。
我々の心をなくさないように心掛け、その個性・本質を大切に培養すれば、それが天の創造化育・造化の精神に随順する道である。
肉体が早死にするか長生きするかは問題ではない。生ける限りひたすら身を修め、造化の原理に順応していくことが、造化という絶対者の命という働きに帰一する道である。


4) 論語』 「不知命」
命(めい)を知らざれば以って君子たること無きなり。

礼を知らざれば以って立つこと無きなり。

言を知らざれば以って人を知ること無きなり。


君子・・・指導者、見識人、人格者
自分というものがどういうものであるか、自分の中にどういう素質があり、能力があり、これを開拓すればどういう自分を作ることができるかというのが「命を知る」、「命を立つ」ということであり、これが分からなければ君子、人格者ではない。

存在するすべての物は何らかの内容を持ち構成されている。その全体と部分、部分と部分との円滑な調和と秩序を「礼」という。
「自分」という言葉は「礼」を見事に表している。「自」は独自。自ら用い、自ら得るという自由。全体を作っている自己は独自であると同時に、全体の一部である「分」である。自由であると共に分という分際である。我々は独自の存在であると同時に、他己に対する関係が有り、全体に対する関係がある。渾然(こんぜん)として一つにしたものを「自分」という。
全体と部分、部分と部分との円滑な調和と秩序が分からなければ、命を立つことはできない。

「言」は思想言論、イデオロギー、主義主張。これが分からなければ、人間というものは分からない。
孟子は「我よく言を知る」、思想問題と言うものを自分はよく認識している、と言っている。
・詖辞(ひじ)・・・偏った議論。
右か左か、白か黒か、の浅薄な考えでいけない。人間はいつでも正しい自主的・総合的見地からものを考えなければならない。流行している他愛も無い既成の考え方・イデオロギーに捉えられてはいけない。偏った議論はいけない。
・淫辞(いんじ)・・・でたらめの議論。
何でも自分の思うところ・欲を通そうとする。人のいう事にケチを付け、理屈をこじ付け、自分の目的を通そうとする。屁理屈を付け無理押しをする。これはどこかで必ず破綻する。
・邪辞(じゃじ)・・・胸に一物を持って邪(よこしま)な理屈。
真理を離れ、真実を離れている邪な理屈。道理にはずれていて自分勝手な理屈。
・遁辞(とんじ)・・・責任回避の逃げ口上。遁辞はどこかで必ず行き詰る。

6. 「(自然)科学」・「哲学」とは

1) 物質の命というものが、いかなる本質や能力をもっていて、それはどういう関係や法則・定理で成り立っているか、それを知ってその物を変化させていくかが「自然科学」。

2) 我々人間がどういう素質・才能を持っていて、それがどういう関係で、どうなっていくかという法則を探って、これを操作して、我々が我々の人格・生活・社会を創造していくものが「哲学」

7. 『陰隲録(いんしつろく)』  「袁了凡(えんりょうぼん)の教え」

袁了凡は幼い時に早く父と別れ、母の手一つで育てられた。
袁少年は高等官の試験を受け官職に就きたかったが、家貧しく勉強の余裕がない。早く一人前になり、母を養わなければならなく、母の言いつけで一番手っ取り早い医者の勉強をしていた。

ある時、孔という人格・風貌共に子供心に立派に映る老人に会った。
この孔老人は「お前は何の勉強をしているのか」という。
袁は「私は、こういう理由で医者の勉強をしている」と答えると、
孔老人「それは惜しい。お前は官職に就いて立派な成功する人相を持っている。その運命の持ち主である。何歳のときに予備試験に何番で合格し、二次試験では何番で合格する。そうして官職となり、何年何月に死ぬ。子はいない」と予言した。

・・・人間はあらゆる未知の世界の中で一番魅力のあるものが何かと言えば自己である。自分を知ることが一番魅力的である。だから易者・予言者などが自分のことに触れると動かされる。やがて少し偉くなり複雑な問題にでもぶつかると、どこかにそういう明るい人がいると、行って聞きたくなるくらい自信のないものである。自分というものが一番知りたい。が、なかなか分からないものものだ・・・

袁はすっかり感激し孔老人を家に連れ帰り大事にもてなし、それから思い立ち大勉強し試験に応じた。
ところが不思議にも孔老人の言った通りの年月に、言った通りの成績で合格した。ますます面白くなり二次試験を受けたら、また言った通りになった。以来何事もすべて孔老人の言ったことが的中して間違いがない。袁は社会的に成功したが不幸にも子供がいない。

袁は思った、人間の運命というものは、ちゃんと決まっておりどうになるものでもない。我々は出世しようとか、金儲けしようとか、いろいろ虫のいいことを考えてじたばたしても、これくらい馬鹿げたことはない、と。
子供もいないし、何年何月に死ぬという寿命も決まっているし、この決まりきった短い人生を何を好んでつまらない事をあくせくするのか、と徹底的に感じ入ってしまった。他人と競争して出世しようとか、金儲けしようとかの気持ちが青年にしてすっかり無くなってしまった。

ある時、仕事で滞在していた寺の雲谷禅師が「あなたを密かに観察していると、年に似合わずできておられる。どういう修行をしてそれまでの風格になられたのか、参考のため承りたい」と言った。

・・・人間は本能的な情欲、煩悩などがなくなるほど、あるいは一段高いものに入れ変わられるほど、人間が高次の存在になるから、俗人では分からない一つの神秘的なものが生まれてくる。袁は、一つのあきらめに到達して、情欲・煩悩が抜けていたため、青年にして清く落ち着いたゆったりした風格になっていた。雲谷は異様に思っていた・・・

袁はありのままに「私は妙な体験を持っています。少年のとき医者の勉強をしていたが、ある時老人が見てくれて、お前は官職に付け、必ず何年何月に何番で合格し云々と言ってくれたので、面白くなり勉強し試験を受けるとその通りになった。それ以来老人の予言が外れたことはない。それでつくづく人生というものは、あらかじめ決まっているもので、知らず知らずの間に決まっていて、我々が盲動したところで何にもならないと諦め、悠々と自然に任せているのである」と語った。

雲谷は急に態度を一変して「なんだ、そんなことか。それじゃお前はまことにつまらない人間だ。大いに見損なった。
お前の諦め・悟りというものは一面的で低級幼稚だ。なるほど人間には運命というものがある。しかしその運命というものがいかなるものであるかは、一生かかって探求しても分かるか分からないか、分からぬものだ。
人間の運命がちゃんと初めから定まっているなら、何で釈迦や孔子など聖賢が苦労したのか。偉大な人が学問修養したのは、学問修養することによって人間を創ることが出来るからだ。人間が出来れば環境も創られる。
我々は運命と言うものを持っているが、人間は学問によって限りなく命を知り(知命)、修行によって限りなく創造・立てること(立命)が出来る。運命は天のなすものであるが、自ら創っていくものである。
だから人間以外の動物に出来ないことを人間がやることが出来る。
お前の運命、すなわち素質・能力・作用というものはそんなに簡単なものなのか。それではつまらない人間であると思わないのか」と言った。

袁は初めて愕然と目が覚めた。

さらに雲谷は「絶えざる思索、物事の根本的意味や関連などを純粋に突きつめて考え実践し、日々に新しい創造的生活をする身となって学問修養をしなさい。そうすれば、君はどうなって行くか分からない。人生がどう変化して行くか分からない。これを立命という。
今まで他律的な運命に支配され、宿命に支配されていたが、今より自由になって自己および人生を創造しなさい。そうしないと運命なんか分かるものではない」と言った。

こう言われて袁は発憤し、勉強し始め新たな生涯に入った。
ところが不思議なことに、それまで外れた事の無い孔老人の予言がことごとく全部外れだした。そして子供も出来、死ぬと言われた年にが過ぎても健康である。

そこで袁は、人間と言うものは安易な運命観に陥ってはいけない。どこまでも探求し理想を追って実践に励まなければならない。そのためにはこういう哲学を持っていこうという修行をしろと、子供に書く残した。これが『陰隲録(いんしつろく)』。

袁は雲谷禅師によって始めて、世の人(凡)の心を悟った(了)とし、了凡と号(本名・別名のほかにつける風流な名)を変えた。


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