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人生の五計

人間には五つの計(はかりごと)があるとし、 中国宋末時代、朱新仲(しゅしんちゅう)(1097-1167)が教訓としてまとめ伝えられた。

朱新仲は、悪政の宰相に睨まれ憎まれたが、迎合しないから辺地に流された。しかし19年間流謫生活では悠々と自然を愛しその地の人々に深く慕われた人。

 
1. 「生計」 ・・・ 人間の本質的な生き方に迫り、人生を健康に、いかに生きていくべきか。
2. 「身計」 ・・・ いかにわが身を人間として社会に対処していくか、何をもって世に立つか、いかなる職業・価値観をもって生きていくか。
3. 「家計」 ・・・ いかに家庭を営み、夫婦関係・親子関係はどうあるべきか、一家をどう維持していくか。
4. 「老計」 ・・・ いかに年をとるか。「老」たるものの価値をいかに活かしていくか。
5. 「死計」 ・・・ いかに死すべきか。


「生計」 ・・・ 人間の本質的な生き方に迫り、人生を健康に、いかに生きていくべきか。
1. 「生計」は経済的な暮らしでもあるが、これは枝葉末節の問題。起臥・飲食他日常の生活、思想、行動に作用する働きかけ・心掛け(日用心法)が大切。

2. 人間にとって一番大切なものは「生」である。この「生」の探求は、人間の「生の理法」が、自然つまり「天の理法」に合致しているものでなくてはならない。
真理に基づかない理論や理屈では駄目で、自然・天と人間を一体としてする「天人合一」・「天人相関」として「生」を探求する事が大切。

3. 人間には精神的・感情的にも納得できる理論、すなわち「情理」を持っている。この「情理」は最も大切で、人・天を通じる。
人と自然とを創造の理に合致してくると「真理」になり、実践性を持つに至って「道理」となる。
「情理」「真理」「道理」に基づいて「生」を探求する事が大切。

4. 「熟睡・深睡」と、心に悩み・邪念がなく精神的・心理的な安らかさのある「安眠」が大切。また、早起きが大切。
曾国藩(そうこくはん)(1811~1872)は「黎明即起(れいめいそっき)し、醒後(せいご) 霑恋(てんれん)する勿(なか)れ」・・・「夜が明けたらすぐ起きる。目が覚めたら、うとうと・ぐずぐずせずしてはいけない」と言っている。目が覚めてもぐずぐずするのは、意識が朦朧(もうろう)として、精神が敏活でない。心身の健康な子供は目を覚ますと跳ね起きる。生命が健康で純真。

5. 論語』 「朝聞夕死(ちょうもんせきし)」・・・「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」

晋書(しんじょ)』 「朝聞夕改(ちょうもんせきかい)」・・・「古人は朝に聞けば夕べに改める」朝に道を聞いたなら、気が付いたなら、直ちに改める、今夕から改める。 

「朝聞夕改」の故事・・・中国、西晋・東晋の歴史書「晋書」に記載されている。
周処(しゅうしょ)は変わり者、強力無双、覇気満々、素行改まらず乱暴者、郷里の人間も持て余していた。
ある年、豊作なのに皆しょぼくれているので、周処は故意にしていた古老に訳を聞いた。
古老「わが郷里に三つの災いがある」
周処「いったい何のことだ」
古老「山の向こうに歳を経た白額の大虎がいる。これは疫病神だ。また、川に蛟(みずち)・蛟竜(こうりゅう)がいる。魚は取るし、人を食らう。もう一つはお前じゃ」
周処は「分かった」と言って、そのまま山へ入り大虎を手打ちにし、川に入り蛟竜と格闘してながら川下に流れた。
村人はすべて死んで厄介払いが出来てたと喜んでいたが、周処がひょっこり帰ってきた。
周処は蛟竜を平らげ意気揚々と帰ってきたが、村人はがっかりしているので聞いてみたら、どれほと自分が嫌われておったか、と非常に感じ翻然(ほんぜん)として行いを改めた。
そして、周処は学者の陸雲に会い、しみじみとその話をし「自分も一つこの辺で翻然として、今までの生活を改めて道を学ぼうと思うんだが、考えてみたらもういい歳になってしまった。今さら学問を志してもどうにもなるまいと思うが、何かいい方法はないか」と、相談した。
陸雲「古人は朝に聞けば夕べに改める」。歳など関係ない、君はそれほど朝に道を聞いたんだから、気が付いたんだから、直ちに改めよ、今夕から改めるがよい、と言った。
そして周処は一念発起、発憤して学び、一年にしてひとかどの人物になった。

6. 愛読書を持つ
心を清め、悟りを導いてくれる、品格の高い書物、道の書物、魂の書物、古人の名書、聖賢の書を、一ページでも、短い文章でも手紙でも詩でも語録でも読むことが大切。

「三上(枕上(ちんじょう)・・・寝る前の枕元、馬上(ばじょう)・・・車上、厠上(しじよう)・・・便所)で良書を読む。

人間は変化がないと創造化育から遠ざかる。変化がある所に弾力性・創造性がある。読書だけでなく日常生活・学問・思想が硬化し硬張(こわば)ってはいけない。

7. 多くの良書を読む必要があると同時に、多くの人を知る必要がある。日用心法・片言隻語に人生の生があり、普段の心法によって養うことが大切。

8. 貝原益軒は『養生訓』で、健康に長生きする方法を説いている。
そして、老いる事の意義や価値、その楽しみ、人生の生き方、健全に老いることの大切さを説いている。(「老計」を参照)


「身計」 ・・・ いかにわが身を人間として社会に対処していくか、何をもって世に立つか、いかなる職業・価値観をもって生きていくか。
1. 士規七則』 (吉田松陰)
成徳達材には、師恩友益多きに居る。よって君子は交遊を慎む。

材…才の意味で知能・技能
 
知能・技能に達し、徳を成し、人間を完成させには、師の恩、友の益が多くいる。だから人格者は交遊を慎む。
 
 
2.
 
論語』 「文会輔仁(ほじん)
文を以って友を会す。友を以って仁を輔(たす)く。              

文…文化の文   仁…仁愛よりも深い解釈で、宇宙・人生を通じて万物とともに生成・化育していく徳
 
徳・仁が発していろいろな枝・葉・花となり実となり、鮮やかな成果(文)である文化・教養が生まれ、それをもって友と会する。
 
 
3.
 
論語』 「益者三友、損者三友」
益者三友、損者三友。

直きを友とし、諒(まこと)を友とし、多聞を友とするは、益なり。

便辟(べんへき)を友とし、善柔を友とし、便佞(べんねい)を友とするは、損なり。

直…まこと   諒…もっとも、なるほど、と頷ける真実   多聞…道を聞く、真理を聞く、教えを聞き、心を傾け頷くような教養を多く持っている   便癖…便とは便利・通りがいい、手段的・方便的であまり責任がないこと。辟とは癖、偏ること    便佞…佞とは心無いやつがうまいことを言う。おもねる。  

友を通して益になるものが三ある。友を通して損になる、徳を損じる、人間を損ずるような悪友が三つある。

真実・まことを持つ友、話を聞いても話をしても、聞く相手が言葉に「なるほど」と頷ける真実を持つ友、いろいろと多くの心を傾け頷くような教養を多く持っている友は、益友である。

ちょっと筋道が通っているようだけれども、大筋・本筋でなく安直でどこか偏り、一理あるが癖がある友、芯がない・骨がない・気骨がない・バックボーンがない・調子がよくグニャグニャしている友、人の気に入るように真心を偽って、心にもなく調子を合わせる友は損友である。

 
4.
 
論語』 「比周」
君子は周(しゅう)して比(ひ)せず、小人は比して周せず。

周…公正無私の交際   比…私心をもって偏り親しむ
 
人格者は公正無私で人と交わり、私心をもって偏ることがない。俗人は私心・偏りを持ち、公正無私で人と交わらない。
 
 
5.
 
『広絶交論』 (劉孝標(りゅうこうひょう))  「五つの邪交(よこしまな交際)
「勢交」 ・・・ その時世に勢力のある人間との交際。これらは勢力が移り変わるとどんどん離れて行く。
「賄交」 ・・・ いろいろ賄賂を贈ったり、寄付したり、そういう関係で仲良しになる、交際する。
「談交」 ・・・ 言論・文章のようなものでの交わりで、騒がれているタレント、文壇、評論界、マスコミで流行っている者との交際。
「量交」 ・・・ その時世の勢力の度合いなどを量(はか)って交際する。株の上がりそうなやつや、将来を見越しての交際。
「窮交」 ・・・ 自分の困窮した時に助けてくれるような人との交際を求めること。困窮してどこかに助けてくれる奴はいないか、行けば何とかしてくれると、自分の窮する話しで頼ってくるやつ。
 
6.
 
『学生憲章』 (安岡正篤 (やすおかまさひろ))  
第一章 ・・・ 徳性は人間の本性であり、知能・技能はぞくせいである、習慣は徳性に準ずる。三者相待って人間を大成する。
第二章 ・・・ 学生はその徳性を養い、良習を体し、知識を修め、技芸を磨くを以って本文とする。
第三章 ・・・ 人間は鍛錬陶冶(とうや)によって限りなく発達するが、その本具する諸々の性能は学生時代に成就するものである。古今人類文化に寄与した偉大な発明発見や開悟も、少なからず二十歳代に行われてい。
第四章 ・・・ 学生は人間の青春であり、民族の精華である。その品性・態度・教養・行動はおのずからその民族・国家の前途を標示する。
第五章 ・・・ 学生は自己の学修及び朋友との切磋琢磨を本分とし、出来る限り雑事に拘(かか)わることを自戒せねばならない。
第六章 ・・・ 講説の師は得易いが、人間の師は逢いがたい。真の師を得ては、灑掃の労をも厭(いと)うべきではない。
第七章 ・・・ 国家・民族の運命をけっする重大時機に臨んでは、敢然として身を挺(てい)し、敬慕する先輩知己と共に、救民・革命の大業に参ずる意気と覚悟を持つことは貴い。
 
7.
 
『教師憲章』 (安岡正篤(やすおかまさひろ))
1. 教育は職業的・社会的成功を目的とする手段ではなく、真の人間を造ることを使命とする。
2. 子弟が将来いかなる地位に就いても人から信頼され、いかなる仕事に当たっても容易に習熟する容易のできている人間を造る事が教育の主眼である。
3. 将来を担う子弟が明日の行路をあやまらず、信念と勇気を持って進む為に要するものは、単なる知識・理論や技術ではなくて、人間の歴史的・恒久的な原理であり、典型である。
4. 教師はみだりに人を教えるものではなく、まず自ら善く学ぶものでなくてはならない。
5. 教師は一宗一派の理論や信仰を偏執して、これを子弟に鼓吹してはならない。
6. 教師は学校と教壇をなおざりにして、政治的・社会的活動をしてはならない。
7. 現代が経験している科学・技術・産業に於ける諸革命と相応する理性的・精神的・道義的達成されねば、この文明は救われない。その「革命への参加」は、教師においていかなる階級の奪権闘争でもなくもっと内面的・霊的な創造でなければならない。


「家計」 ・・・ いかに家庭を営み、夫婦関係・親子関係はどうあるべきか、一家をどう維持していくか。
1. 『いろはガルタ』
子供は家庭で育てられ、学校で教えられ、地域社会で磨かれて成長する。しかし、特に問題を持つ子の影に問題の家庭があることが多く、素直な子を見ると自然に家庭の好ましい雰囲気が想像され・・・家庭教育の確立を目指した「家庭教育いろはガルタ」
いつも笑顔で一家団欒 わがままは親の心の弱さから
炉辺談話の主役は子ども 考える子供と共に伸びる親
話は互いによく聞いて よく聞いて、それから静かに説いていく
憎まれっ子ほどよく伸びる 助け合い励まし合うのが親兄弟
褒め言葉が子どもを育てる 冷静に自分の態度を振り返る
隔てをつくるな上と下 側にいるだけで落ち着く子の心
どこの子にもある良いところ 使い方、工夫させてお小遣い
知育の前にまず愛育 寝ていて子を起こすな
理屈を言うよりやってみせ 泣いている子を温かく見守って
糠とクギと思わず、教え繰り返し 楽ばかりさせれば子どもを弱くする
留守番も大事な一つのお勉強 蒸し返す小言は少しも効き目なし

後ろ姿を子どもは見ている 挨拶は家庭の躾の第一歩
のびのびした子どもは良き夫婦から 最後までやり抜く姿勢をを育てよう
親の座崩れて子はぐれる 厳しく教え温かく育てる
工夫して生み出す親と子の時間 譲り合う心の芽生えは家庭から
約束を破る親には子が背く 目が語る千万言の親の愛
回り道する子をじっと待ってやり 認めれば一人ひとりが生きてくる
喧嘩しながら子は育つ 叱らればかりいる子は育たない
双葉の中にある個性 非行児は家庭に対する不信から
声をかけよう隣の子にも もしもしと電話のかけ方躾の一つ
栄養も過ぎて苦しむ肥満体 整理整頓幼児から
できることから励まして するな子の前夫婦の喧嘩
 
2.
 
『父母憲章』 (安岡正篤(やすおかまさひろ))
1. 父母はその子どものおのずからなる敬愛の的であることを本義とする。
2. 家庭は人間教育の素地である。子供の正しい徳性とよい習慣を養うことが、学校に入る前の大切な問題である。
3. 父母はその子供の為に、学校に限らず、良き師・良き友を択んで、それに就けることを心掛けなければならない。
4. 父母は随時そ祖宗の祭を行い、子供の永遠の生命に参ずることを知らせる心掛けが大切である。
5. 父母は物質的・功利的な欲望や成功の話に過度の関心を示さず、親戚交友の陰口を慎み、淡々として、専ら平和と勤勉の家風を作らなければならない。
6. 父母は子供の持つ諸種の能力に注意し、特にその隠れた特質を発見し、啓発することに努めなければならない。
7. 人世万事、喜怒哀楽の中に存する。父母は常に家庭に在って最も感情の陶冶(とうや)を重んぜねばならない。
 
3.
 
「敬と恥」
1) 人間と動物とを区別する最も根源的な境界の大事なもの、これを失くせば人間が人間でなくなってしまい、人間が万物の霊長であるという境界をなすものは何か。それは「敬」と「恥」である。愛ではない。
愛は高等動物にも十分に認められる。人間に根本的に大切なものは愛よりも「敬」と「恥」。これを失うと動物並になる。
 
2)
 
「敬」するとは、自ら敬し、人を敬するということ。
人間が生まれたまま自然のままに満足しないで、より高いもの、より大きいもの、偉大なるものに対して生じ、人間が進歩向上の心をもって自ら進歩向上の対象を創造する。創ることに対して、「敬」という心が生じる。
進歩向上する人は必ず偉大な目標に向かって進むが、「敬」することが分からない者は進歩・向上がない。
 
3)
 
「敬」の心を持つと、相対的原理によって自ら省みて必ず「恥ずる」心が湧いてくる。恥ずるから慎む。「敬」は「恥」や「慎み」の心を活かす。
 
4)
 
孟子は、人間が恥じる、恥に耐えないという心を養うことが大切と言っている。
孟子曰く、恥の人に於(お)けるや、大なり。機変(きへん)の功(こう)を為す者は、恥を用うる所なし。人に若(し)かざるを恥じずんば、何ぞ人に若くことか之れあらんや。
 
孟子は言う「羞恥心は人間にとって重大な徳目である。場当たり主義でごまかしと小細工を弄(ろう)する人間は羞恥心がない者である。自分の徳行や能力が人におよばないのを恥ずかしく思わないような人間が、どうして人並みになれようか。」
 
 
5)
 
敬することは、偉大な目標を持つ、進歩向上の目標を持つ事で、これを知ると敬の対象に近づこうとする。できればそれに親しみ一つになろうとする。

そこで敬する、敬(うやま)うということを日本語で「参る」という。神に参る。仏に参る。だんだん普遍化して「父の家に参る」、「何々してまいります」となった。

西洋の「愛する」の言葉の中に敬がない。日本語で愛することを参るという。「俺はあの女に参った」、これは女を愛することより進んで、あの女は偉い、頭が下がるの意味を持っている。男が女に参ったというのが味が深い。結婚も愛しているからと言うぐらいの結婚ではなくて、双方が「参った」の結婚でありたい。

日本語では、勝負をして負けた時に「参った」と言う。これは他国に無い値打ちのある言葉。負けた相手を偉いと認識・感服すること。
 
6)
 
敬すれば参る。参ると側へ近づきたい、親しみたい、側で何でも務めたい。これを侍(はべ)る、侍(じ)すると言う。
参れば侍りたい。側に近づき、共に暮らしたい、すべてを捧げたくなる。それを「祭る」と言う。侍る、祭るとか、日本人は何かと「仕る(つかまつ)る」「奉(たてまつ)る」と、「まつる」と表現する。
 
7)
 
「祭」の文字は、食うものが無い原始人が命を支える大事な肉(月)を、右手で神に自分の命の糧を奉るという意味。「示」は神棚で神をあらわす。
 
8)
 
「侍(はべ)る」に対応する言葉は「侍(さぶら)う」「候(さぶら)ふ」で、こういう敬の道徳に徹して生きようとした階級が「武士」。それで「侍(さむらい)」と言う。
侍とは敬する者に参って、それに侍(はべ)り、侍(さぶら)い奉(たてまつ)ると言うことで、一命を捧げてそれに近侍していくという心・道、それが「武士道」
 
9)
 
子供は本能的に、母に愛・慈愛、父に権威・尊敬・敬慕を本能的に持っている。子供は自ら母を愛の対象とし、父に敬を抱きまた敬を求める。
父自身が子供から「敬」の対象たるにふさわしい存在たることが肝腎。父の存在そのものが子供に本能的に敬意を抱かしめる、本能を満足させる存在でありたい。

父親の帽子や身に付けるものを、子供が被ったりするのは父親のになろうとし、敬の対象に自らなろうとしている事。可愛いいたずらと思うのではなく、「ほら見て御覧なさい。この子はあなたになろうとしているんですよ。しっかりしてくださいよ」と、親が敬の対象となり得て、子に敬の心を育てたい。
 
4.
 
家庭は人間教育の素地。家庭教育から教育が始まる。まず根本的に子供の正しい特性と良い習慣を養うことが、学校へ入る前の大切な問題。父母は子供のために学校に限らず、良き師と良き友を選んでこれに就けることを心掛けることが大切。
 
5.
 
『児童憲章』 (安岡正篤(やすおかまさひろ))
1. 人間進化の機微は胎児に存する。胎児はまず最も慎重に保育されなければならない。
2. 児童は人生の曙である。清く、明るく、健やかなることを尚(たっと)ぶ。
3. 児童に内在する素質、能力は測り知れないものがある。夙(はや)くより啓発と善導を要する。
4. 習慣は肉体となり、本能となる生きた主義理論であり、生活は習慣の作品ある。良い習慣を身に付けること即ち躾は児童のために最も大切である。
5. 言葉と文字は人間文化の血脈である。児童はなるべく早くから、民族の正しい言葉と文字を学ばなければならない。その学習能力を児童は大人よりも純粋鋭敏に本具しているものである。できれば一、二の外国語を修得することも望ましく、またそれは十分可能である。
6. 児童は祖国の歴史伝統に基づくすぐれた文字・芸術や、世界と宇宙の限りない感興に誘(いざな)う諸々の作品の裡(うち)に養われねばならない。
7. いかなる艱難辛苦(かんなんしんく)も補導宜しきを得れば、児童にとって却(かえ)って大成の試金石となるものである。
 
6.
 
「立派な女房」論
ある知事が次官と喧嘩して、辞表を叩きつけて家に帰ってきた。この奥さんは財界の名士の娘だが、夫婦仲は悪く普段から喧嘩ばかりしていた。
その彼が「俺は今日、次官と喧嘩して辞表を叩きつけてきたよ」と言った途端、奥さんは「言わんこっちゃない。だから私は、あんたは偏屈でいかんとしょっちゅう言ってるんだ」とやり返し、「これからどうするんですか?」と言った。
気の短い彼はヒシャと一拳をくらわした。
 
 
大臣経験あり温厚な人が、ある理由で辞表を叩きつけてその座を降りた。
家に帰り「わしは今日辞表をだしてきたよ」と言った。途端に奥さんは「ああ、よかったですね。これでまたお好きな釣りができますねぇ」と言った。彼は感動して「ああ女房は立派な女だ」と思った。・・・これはいい意味の「佞」(仁のある女性)。


「老計」 ・・・ いかに年をとるか。「老」たるものの価値をいかに活かしていくか。
1. 年をとっていく・老いていくということは、老熟していくこと。「老」という字は「なれる」「ねれる」と読む。世間の体験を積んで非常に練達した人を老手と言う。老先生、老練と言う。
江戸前期の伊藤仁斎は「老去佳境に入る」(人生の妙味、学問の妙味などが年をとるほど分かる)と言っている。
 
2.
 
淮南子(えなんじ)』 (遽伯玉(きょはくぎょく)) 「知非」
行年五十にして、四十九の非を知る。六十にして六十化する。
 
五十になってそれまでの四十九が間違っていた、駄目だった。六十になっても六十になっただけ変化、良く変わっていく。
 
 3.  
「茶話」 ・・・ 「茶飲み友達」
茶は味わい深いもの。栽培は難しいが、最初は薬用が、次第に趣味になり、生活必需の飲み物となった。

茶は湯加減が大切で、第一煎で茶に含まれる甘み(カテキン)をよく味わう。

第二煎ではタンニンの渋みが出る。このタンニンの中にカテキン・甘みが含まれていて、甘い味の少し至れるもの進歩したものが渋みで、進んだ味わいの境地。

第三煎で、苦味のカフェインがでる。味の高等なもの。

この順序を誤ってむやみやたらに沸騰湯を通すと、いっぺんに段階を無視した苦い茶になり、滅茶苦茶・芽茶苦茶になる。

甘言・甘い言葉は駄目で、甘言に惑うのは愚昧(ぐまい)。渋い、苦い、苦言を好むようにならないと進歩した人間とは言えない。

甘い、渋い、苦いは化学では偏味と言う。これは至れる味ではない。何とも言われない味が至味、至れる味わい、無の味という。無の味では人が分からないら淡という。これは甘い、渋い、苦いとか超越して何とも言えない至れる味。

「君子の交わりは淡こと水の如し」のように、茶、淡、水、の中に味があり、哲学がある。

本当の茶が飲めるとは、人生の経験を積んで酸いも甘いも噛み分け、茶話が出来るようになれば、人間大したもの。

苦楽を共にし夫婦いい年になって、しみじみ人生の理法・道理を話し合えるというのが「茶飲み友達」。
 4.  
養生訓(貝原益軒)  
貝原益軒(1630~1714)は江戸前期の儒学者。
医学・思想学問・薬学・地理学・歴史学など広い学識を修め、よく老いる事の意義や価値、その楽しみを知っていた。
養生訓は医学専門書だけでなく、人生の生き方、さらには健全に老いることの大切さ、楽しさをやさしく説いている。
84歳他界1年前の著述。
1. 人生五十にいたらざれば、血気いまだに定まらず、知恵いまだに開けず、古今にうとくし、世変になれず。言あやまり多く、行(おこない)悔い多し、人生の理(ことわり)も楽しみもいまだ知らず。

五十にいたらずして死するを夭(わかじに)という。是亦(これまた)、不幸短命と言うべし。長生きすれば、楽(たのしみ)多く益多し。
日々にいまだ知らざることを知り、日々にいまだ能(よく)せざることを能す。この故に学問の長進することも、知識の明達も、長生きせざれば得がたし。

此れを以って養生の術を行い、いかにもして天年をたもち、五十歳をこえ、成るべきほどは弥(いよいよ)長生きして六十以上の寿域に登るべし。
 
2. 人の身は父母を本とし、天地を初めとす。

天地父母のめぐみをうけて生まれ、又、養われたる我が身なれば、わが私の物にあらず。

天地のみたまもの、父母の残せる身なれば、つつしんでよく養いて、そこないやぶらず、天年を長くたもつべし。
 
3. 短命なるは生まれ付きて短きにはあらず。

十人に九人は皆みずから損なえるなり。ここを以って、人皆養生の術なくんばあるべからず。
 
4. 養生の術は、
(まず)心気を養うべし。心を(やわらか)にし、気を平らかにし、怒りと欲とを抑え、憂い思いをすくなくし、心を苦しめず、気をそこなわず、是れ心気を養う要導なり。

また、臥(ふ)す事を好むべからず。久しく眠り臥せば、気滞(とどこお)りてめぐらず。飯食いまだ、消化せざるに、早く臥しねぶれば、食気ふさがりて甚(はなは)だ元気をそこなう。いましむべし。

酒は微酔にのみ、半酣(はんかん)をかぎりとすべし。食は半飽(はんほう)に食いて、十分に満つべからず。酒食ともに限りを定めて、節に越ゆべからず。

また、若き時より色慾を慎み、精気を惜しむべし。精気を多くついやせば、下部の気弱くなり、元気の根本たえて必ず命短し。もし、飲食色慾の慎みなくば、日々補薬を服し、朝夕食補をなすとも、益なかるべし。

また、風・寒・暑・湿の外邪をおそれふせぎ、起居動静(どうじょう)を節にし、つつしみ、食後には歩行して身を動かし、時々導引(どういん)して腰腹をなですり、手足を動かし、労働して血気をめぐらし、飲食を消化せしむべし。・・・

病発(おこ)りて後、薬を用い、鍼灸を以って病をせむるは養生の末なり。本(もと)をつとむべし。
  
5. 養生の術は、
安閑無事なるを専らとせず、心を静かにし、身を動かすをよしとす。身を安閑にするは、かえって元気滞り、ふさがりて病を生ず。

例えば、流水は腐らず。戸枢(こすう)は朽ちざるが如し。是うごく者は長久なり。動かざる物はかえって命短し。安逸なるべからず。是すなわち養生の術なり。
 
6.
 
人の元気はもと是れ天地の万物を生ずる気なり、是れ人身の根本なり。人、此の気にあらざれば生ぜず。

生じて後は飲食衣服居処の外物の助けによりて、元気養われて命を保つ。飲食衣服居処の類(たぐい)も亦(また)天地の生ずる所なり。
生るるも養わるるも皆天地父母の恩なり。
人の楽しむべき事、三あり。

一には身に道を行い、非が事なくして善を楽しむにあり。
二には、身に病なくして、快く楽しむにあり。
三は命長くして、久しく楽しむにあり。

富貴にしてもこの三の楽なければ、真(まこと)の楽なし。故に富貴は此の三楽の内にあらず。もし、心に善を楽しまず、養生の道を知らずして、身に病多く其のはてに短命なる人は此の三楽を得ず。
 7.  
摂政の七養あり。 『寿親養老補遺(じゅしんようろうほい)(劉純(りゅうじゅん))
一には言を少なくし内気を養う。

二には色慾を戒めて精気を養う。

三には滋味を薄くして血気を養う。

四には律液(しんえき・・・つばき)を飲んで臓気を養う。

五には怒を抑えて肝気を養う。

六には飲食を節して胃気を養う。

七には思慮を少なくして心気を養う。


「死計」 ・・・ いかに死すべきか。
1. 刀折れて矢尽きて死ぬのは情けない死に方であり、もっと立派な死に方を考えなければならない。
 
2.
 
いかに死すべきかは、いかに生きるべきかと同じで、死ぬことは人の性霊が「限定された生」から「無限定の生」に遷ること。
 3.  
言志録』 (佐藤一斎) 
生物は皆死を畏(おそ)る。
人は其の霊なり。
(まさ)に死を畏るるの中(うち)より、死を畏れざるの理(ことわり)を揀(えら)び出すべし。

(わ)れ思う、わが身は天物なり。
生死の権は天に在り。当に順(したが)いて之(これ)を受くべし。

我れの生まるるや自然にして生まる。生まるる時未だ嘗(かつ)て喜ぶを知らざるなり。
(すなわ)ち我れの死するや、応(まさ)に亦(また)自然にして死し、死する時未だ嘗(かつ)て悲しむを知らざるべきなり。

天之を生じて、天之を死せしむ。一に天に聴(まか)すのみ。吾れ何ぞ畏(おそ)れむ。
吾が性は即ち天なり。(くかく)は即ち天を蔵するの室(しつ)なり。

精気の物と為るや、天此れの室に寓せしめ遊魂(ゆうこん)の変を為すや、天此(こ)の室より離れしむ。

死の後(のち)は即ち生の前、生の前は即ち死の後にして、而(しか)して吾が性の性たる所以(ゆえん)の者は、恒(つね)に生死の外(ほか)に在り。吾れなんぞ焉(これ)を畏(おそ)れむ。

(そ)れ昼夜は一理、霊明も一理、始めを原(たず)ねて終に反(かえ)り、死生の説を知る。何ぞ其の易簡(いかん)にして明白なるや。吾人(ごじん)(まさ)に此の理を以って自省すべし。
 
生物はみんな死を畏れる。
人間は万物の霊長である。
死を畏れる中から、死を畏れない理由を選び出し安住すべきである。

吾れ思う、自分の体は天からの授かりものである。
死ぬとか生まれるといった権利はもともと天にある。逆らわずに畏れもせずに、従順に天命を受けるのは当然のことである。

われわれが生まれるのは、ごく自然であって生まれたときは喜びなんか知らない。
われわれが死ぬのもまた自然であって、死ぬ時は悲しみをしらない。

天がわれわれ人間を生み、そして死なすのであるから、死生は天にすっかり任せるべきで、別に何にも畏れることはない。
わが性命は天から与えられた物、すなわち天物で、その肉体はその性命はをしまっておくいわば室である。

精気が一つの固まったものとなると、天から与えられた性命は、この肉体という室に仮住まいするけれど、魂が肉体から遊離すると天物はこの室から離れていく。

死ぬと生れ、生まれると死ぬものであって、性命の性命たるゆえんのものは、いつも死生を超越しているから、われわれは死に対する恐怖はまったくない。

昼夜が一つの道理であるように、死ぬのも生きるのもまた一つの道理である。物の始めをたずねれば必ず終りがある。死生の理は明明白白である。われわれはこの道理をもって自ら反省すべきである。
 
 
4.
 
賢人は死を天から定まった命として、生者必滅(しょうじゃひつめつ)の道理を悟って死ぬことをあまんじる。死を畏れることを恥として、安心して死ぬことを望む。一般の人は死に対して畏れの念を抱いている。
 
5.
 
血気に勇み立って死を軽視したり、惑うものが死に満足するのは、天を知らぬもので、死を畏れる者より劣っている。
 
6.
 
「死計」は即「生計」。始めの「生計」はもっぱら生理的な「生計」で、「老計」を通ってきた「死計」は精神的なで霊的な生き方。不朽不滅、永遠に生きる計りごとで、生とか死とか超越した死に方、生き方、これが「死計」。

 


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